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- ためされてガッテン -

【 ガッテン! ガッテン! Akakyo のためしてガッテン記! 】



2005年06月03日 金曜日 [23時05分] 98

.【 フラグ 】.

 こんばんは。アカキョです。金曜日です。何日あけちゃったんだろう。

               * * *

 「死亡フラグ」について語る前に「フラグ」について説明しておく必要があるかもしれない。「フラグ」というのは元は確かプログラムの用語で、ある条件を満たしたらこの処理をする、というような条件分岐の際に、その条件が満たされているかどうかを記しておくスイッチのことである。専用の変数を用意しておいて、その変数に適切な値が入力されていれば次の処理に進む、という塩梅だ。このスイッチのオンを、目印となる旗を立てることに見立ててフラッグ(旗)、つまりフラグを立てると呼んだりするのである。

 そこで「死亡フラグ」である。これはゲームで出てくることが多いのだが、アドベンチャーゲームなどの選択肢で誤った選択により主人公が死亡してゲームオーバーになってしまうというようなときに、その死に繋がる選択のことを「死亡フラグ」ということがある。ゲームもプログラムの側面から見ると、この選択肢を選んだら死亡するように処理をする、と記述されているのだから、これもやはり「フラグ」なのである。

 この「死亡フラグ」という言葉をさらに拡大解釈して、映画や小説などを見たり読んだりしていて登場人物の死を予感したときなんかに「ああ、この人は死亡フラグが立ったな」などと使うこともできる。戦争映画を見ていて仲間の兵士が「この戦争が終わったら国に帰って結婚するんだ」なんて言おうものなら、その兵士はまず間違いなく死んでしまうだろう。幾分ありきたりではあるが、十中八九演出のために作中で殺されてしまうのだ。そんなとき「国に帰って結婚するんだ」というセリフが彼にとっての「死亡フラグ」となるのである。ずいぶんと斜に構えた使い方であるが、これもまた「死亡フラグ」のひとつといえる。

 ついこの間、十年以上の付き合いとなる地元の友人が遠く滋賀に移り住むこととなり、簡単ながら居酒屋で送別会をしてきた。もっとも送別会というほどかしこまったものでもなく、集まった数人の友人とともにいつも通り実のあるようなないような雑談をしながら酒をあおっていただけではある。送られる当の本人からしてみればもう少し何かしら惜別やら激励やらがあった方が思い出になったのかもしれないのだが、私にしてみれば湿っぽくなってしまうのはどうにも性に合わないので、努めて普段どおりに楽しく呑むようにしていたし、むしろその方がいいとも思っていた。これで今生の別れというわけでもあるまいし、大事にすることもないだろうという思いもあったし、にわかには会いに行き難い距離まで彼とはなれてしまう事実を意識したくなかったというのもある。

 ひとしきり呑んでの帰り道、尽きない話でズルズルと時間を引っ張りながら、ついにここで別れてそれぞれ家に帰るという分岐になる交差点でお互いに最後の挨拶を済ませると、彼は私に手を差し出した。握手をしようということだった。私はわりにしっかりと彼の手を握り返しながらも、別れ際の握手ってのは湿っぽくて好きじゃないんだよなぁ、というようなことを言ったように思う。そこに含む湿っぽさや感傷的なものを避けようとしたこともあるが、不意に「死亡フラグ」を思い起こしてしまったのだ。もっとも別れ際で握手をしたからって彼が死ぬわけではないし、そんなことがあってたまるものかとも思う。ただ、一つの区切りをつけてしまうことを怖れたのだ。握手を通して互いの関係に区切りがついてしまうのではないか。それはある種の「死亡フラグ」なのではないかと思ったのだ。

 「じゃあハイタッチで」。私の考えを察したのかどうか、彼はさらりと提案してきた。なるほど、それはいいアイデアである。別れ際の握手となるとどうしても重いものがあるが、ハイタッチならずいぶんと軽いし、挨拶にしてもちょうどいい。この辺の機転の利かせ方は実に彼らしい。パチン、と景気のいい音を深夜の静まった街中に響かせて、私と彼はそれぞれの家路についた。これなら大丈夫だ、やつなら大丈夫だ。たぶんそのうちにまた喉が渇いたから、と酒を呑みにひょっこりと私の前に現れるに違いない。



2005年05月20日 金曜日 [23時01分] 97

.【 先日赤く燃える空に虹を見て思い出したこと 】.

 こんばんは。金曜日です。アカキョです。髪を切りにいったら理髪屋のお姉さんが肩をもんでくれました。これなら毎日通ったっていい。

               * * *

 もう数年も前になりますが、酔狂な友人もいたもので、よりにもよって台風の日にドライブに出かけようと誘われたことがあります。どう考えたってドライブ日和ではないのですが、彼にしてみればこんな日だからこそドライブ、ということのようです。そういえばスピード出すのが好きだったり、雪の日に嬉々として車を乗り回していたりしていました。彼にとってその手の危険はどこかしらゲーム的に感じるものがあるのではないかと思います。

 誘われるままについて行った私も私ではありますが、ともあれ友人と私を乗せた車は暴風雨の中をあちらこちらとふらふらしながら、結果的に東へと抜けていく台風を追いかける形で走りつづけました。道に横たわる倒木をかわしながら、水が溢れて通行止めになった幹線から迂回を余儀なくされながら走ること数時間。台風は途中で北にそれたようで、東へと進路をとっていた私たちは気付けば海に出ていました。

 台風というイベントが終わってしまったことに友人は少し残念そうにしていました。もちろん彼のある意味乱暴なドライブに心からの同意を寄せるわけではありませんが、確かに台風の過ぎた曇天、木の葉やゴミの散乱した濡れたアスファルト、人気のない町にはどこか祭りのあとのような独特の寂しさがあるように思います。そう考えれば、友人の悪天候ドライブはその祭りの熱気に衝き動かされていたのかもしれません。

 せっかくここまで来たのだからということで、私たちは海沿いを北上して灯台を見て帰ることにしました。夏の日のことなので、夕方を少し回ったこの時間から帰るにしても少し時間の余裕があったこともあります。正直なところ暗い空の下に佇む灯台を見てもあまり感慨はないように思いましたが、その思いは全く違う形で裏切られることとなりました。

 車窓越しに見る海沿いの、白色を基調とした古く寂れた町並みが不意に赤く染まりました。台風一過の晴れ間ということなのだと思いますが、にわかに曇り空が一転して夕日に照らし出されたのです。それも普段私が見ることのないような、まばゆい、燃えるような赤色に。もとよりの強い夏の日の光と町並みの照り返す光とがあいまって、余計に鮮烈に、視界そのものを赤く包み込んでいました。

 結局その世界が赤く燃え上がっている、恐ろしくドラマチックで、幻想的で、情緒的な時間はあまり長く続かず、灯台に着いた頃には空は茜色よりも藍色が強く支配していました。本来そうあるべき夏の宵の入りの空を少し恨めしく思いました。台風の日になんかドライブするものではないし、ましてや雪の日のドライブだとか細道を駆け抜けるような危ない運転はごめんだとかは今でも思いますが、その友人からのドライブの誘いは断るべきではないとも思わされます。



2005年05月06日 金曜日 [23時42分] 96

.【 腕時計 】.

 こんばんは。アカキョです。金曜日。ご利用は衝動的に。

               * * *

 腕時計を腕にしなくなってからどのくらい経つでしょうか。子供の頃は腕時計がなにやらハイカラなアイテムのように見え、また、着けていることがある種のステータスのようにも思えたもので、好んで腕にしていたのですが、ある時期から腕時計を全く着けなくなりました。そのきっかけが一体何であったかは今では定かではありませんが、腕が蒸れるとか手首にベルトの痕が残るとか、およそそのあたりのいい加減な理由であったのではないかと思います。

 腕時計を腕から放棄してからも数年の間は腕時計を常に所持していました。やはり出先で時間を知るためには腕時計は重宝するのです。そのため、腕時計を腕にせずにポケットに入れて持ち運ぶという妙なことをしていました。考えてもみればトンチンカンなお話ではありますが、当時の私には「あるべきものをあるべきように使わない」という無駄にどこかしら粋のようなものを感じていたところがあったので、わりと満足していたものです。

 その後腕時計は完全に携帯電話にその役を取って代わられ、お気に入りの腕時計の電池が切れるのを境にいよいよ私は腕時計と無縁な存在となりました。逆に携帯電話を持っていないと何もできなくなるという弊害は背負い込むことになったものの、時間を知ることもでき、ただでさえゴミが多く詰まった私のポケットを軽くすることにもなり、その上時報に電話をかけることもできるのですから、確かに腕時計を所持している必要も薄くなったわけです。

 ところが最近腕時計をしばしば腕にするようになりました。もっとも腕時計の魅力やら有用性に目覚めたわけでもなく、単にひょんなことから腕時計を一本いただいてしまっただけのことで、その上さほどの必要がなければやはり携帯電話を持つだけにとどまってしまいますが、それでも長いことそこになかったものが腕にあるという新鮮な感覚には少し楽しくなるものがあります。特に意味もないのにことあるごとに腕時計を見てみたりと、まるで子供のようです。

 このにわかに起こった小さなブームがいつまで続くものかは定かではありませんが、ひとまず飽きるまでは楽しんでみようかと思います。腕時計は時間に縛られた現代人の象徴だとか言われることもありますが、腕時計を投げ捨てて社会と決別するというような映画的なシーンを演出するほどの度胸は私にはありませんし、だいいち象の「サトちゃん」(佐藤製薬のマスコット)がプリントされた腕時計ではファンシーすぎて投げ捨てても様にならないのです。



2005年04月29日 金曜日 [22時58分] 95

.【 神社と桜とライトと鳥居と 】.

 こんばんは。アカキョです。金曜日です。そうみたいです。

               * * *

 夜になると神社の入り口に設置されたライトが点けられ、いささか黄色みを帯びた暖かい灯りが鳥居を照らし出します。団地の真ん中にあるとはいえ神社は神社、どことなく厳粛な雰囲気を滲ませるこういった場所に、いかにも夜店の照明のようなライトが設置されているのを見ると少し違和感を覚えなくもないのですが、当の神社にとってみればおそらく我々の家の外灯とさして変わらぬ気分でのものなのかもしれません。

 出先からの帰り道、あるいは夜中に気まぐれで出た散歩道でこの神社を通るときは大抵いつもこのライトについて、あまり風情がないだとか、どうせなら石灯籠を置けばいいのにだとか思っていました。仮に外灯のつもりで設置されたものであっても、私のような全くの部外者、通行人の目にとってはなにやら鳥居を彩るライトアップのようにしか映らず、そのライトアップにしてもあまりにもぞんざいのように見えるのです。

 いっそライトなど消して真っ暗にした方が雰囲気が出るのではないか、などと勝手なことを思っていたのですが、先日のやはり夜中に神社の前を通りかかってはっとしました。神社の入り口、鳥居をくぐって伸びる道がライトに照らされて薄赤く浮き上がって見えたのです。明らかに見慣れた雰囲気と異なっていたことに一瞬戸惑いましたが、すぐにそれが敷き詰められた桜の花びらによるものだとわかりました。神社に植えられた八重桜がちょうど散る時期だったのです。

 ライトの帯びる黄色い暖かい光が、照り返す地面の桜の花びらの濃い桜色によって透き通った光に映り、鳥居と沿道をぼうっと浮かび上がらせていました。夜の闇と照らしだされた鳥居、そして桜色の絨毯。その淡いコントラストにふと幽玄という言葉がよぎりました。美しい。普段美醜という観点でなにごとをか判断するということがない私をしても、美しいと思わせるだけの光景がそこにありました。

 それから二日の間に風の強い日があって八重桜も桜色の絨毯もすっかり吹き散ってしまい、再び夜中に神社を訪れたときにはまたいつもの黄色い光が無粋に鳥居を照らしているだけになっていました。もっとゆっくり堪能しておけばよかった、惜しいことをしたとも思いましたが、反面それでよかったのかもしれないとも思いました。また来年、桜の咲く時期を楽しみにすることができるというのは、それでそれでいい心持ちのような気もします。



2005年04月22日 金曜日 [22時30分] 94

.【 ノンフィクションな人々 】.

 こんばんは。アカキョです。金曜日。近所の神社の水道でポリタンクに水を汲んでいる老夫婦を発見。霊験あらたかというわけでもなくて全くの水道水のはずなんだけど、ご利益でもあるのかしら。

               * * *

 先日古本屋で久々に買い物をしたというお話を書きましたが、その際に私が目玉としていた山口瞳の「血族」を先日ようやく読了しました。 350 ページほどの文庫なので、文章を読む速度が人並み以下に遅い私でも二日ほどあれば読めてしまうはずのものなのですが、あれやこれやでなかなか読み進めることができず結局 2 週間ほどかかってしいました。

 簡単にあらましを書いてしまうと、この「血族」という本は著者山口瞳が自らの出生に関して感じていた不明瞭な違和感を発端に、親類縁者、つまり血族と歴史について自身の記憶と新聞などの残された資料を元に深く探りを入れていくノンフィクションです。私のあらましがあまりに簡単過ぎてこれではまるで内容が伝わりませんが、畢竟するとそうならざるを得ないのも確かです。

 著者自身の出生の謎、自らのルーツ、なぜ母は、親類縁者は何も語ろうとしないのか。それらの謎に、時間と人々の思惑によって埋もれていく歴史に、少しずつ肉薄していく様は実にスリリングなものがあります。正直なところノンフィクションということで、物語小説のようなカタルシスどころか場合によっては何も解決しない、山なし意味なしオチなしの展開になるかもしれないことは覚悟していたのですが、全くの杞憂でした。

 あまり書評めいた事を書くのも趣味ではないし、気も引けますので話を変えますが、私はどうもノンフィクションがわりと性に合うようです。ルポライターの沢木耕太郎を愛読するのも、小説よりもエッセイを好むのも、今回取り上げた「血族」に魅力を感じたのも、文章の根幹にあるものが生の人間であり、大げさに言うと生の歴史だからだと思います。「事実は小説よりも奇なり」といいますが、奇であるかはともかく、事実であるからこその説得力、面白さ、滑稽さ、恐ろしさがあり、ドラマがあるのではないかと。

 しかし同時に、ノンフィクションに刻まれたドラマに魅力を感じるのは自分自身の人生にそれほどのドラマ性を感じていないことの裏返しともいえるかもしれません。波乱万丈な生き様も数奇な運命も人生を左右する大事件も私にはありません。あるいは本人だからこそ気付いていない、人の目を通してみれば変わった生き方をしているのかもしれませんが、なればこそなおさらドラマチックな人生を実感するのは無理のようで、そう思うと少し寂しいような気もします。

 もっとも大事件とか起こってもらっても困ってしまうのですが。



2005年04月15日 金曜日 [23時03分] 93

.【 桜とカエル 】.

 どもです。アカキョです。金曜日。「きんにょうび」ってタイプミス。尿ーっ! 尿ーっ!

               * * *

 先日までの悪天候で全滅していたと思われた私の近所の桜ですが、気がつけばわりと生き残っている木もあるようでひと安心です。実際のところ近くの神社の桜は(遅咲きの八重桜もあるので、ありがたいことに「桜の時期」としてはまだ終わりませんが)一分ほどを残して壊滅状態だったのですが、公園から小学校にかけての桜は満開に近い状態で咲き誇っていて、思わず、よくぞ生き残った我が精鋭たちよ! と谷隊長みたいな声をあげました。

 ……谷隊長って皆さん知ってます?

 出先からの帰り道、そんな精鋭たちを横目に公園を抜けて少しだけ回り道をしたのですが、大通りから少し奥に入った道路を歩いていると不意にカエルの声が聞こえてきました。確かにこの道をさらに奥へ入れば田んぼが連なっていてカエルの声が聞こえてきてもおかしくない位置関係なのですが、時期的にまだ早いだろうと思っていたので少し驚かされました。というか実際にはどこかしら焦燥感を感じたと言ったほうが適切かもしれません。

 私も一応は団地住まいの現代人、あまり四季折々の自然の変化を感じる機会のない中で、数少ない季節の移ろいを感じることのできるものの一つに「カエルの鳴き声が聞こえてくる」があり、それは私にとって春も過ぎ初夏に入ることを意味しています。桜の花もまだ全然堪能していないのにもう初夏がきてしまうのか。いや、そればかりかついこの間まで正月だったのではなかったのか。そう思うとなんだかえもいわれぬ焦燥感を覚えるのです。

 結局のところ時間を止める超能力が使えるか寿命が八百年ある妖怪変化でもないかぎり、一個の人間にとって時間の流れというのはけっこう大きいものだと思います。それが一年でも三ヶ月でも変わらず過ぎてみるとずいぶんと時間を失った、と思わずにいられません。それはあるいは私がずいぶんと歳をとってしまったからそう感じるのかもしれないのですが、ともあれ、カエルが鳴く季節になったと知ることはそれだけ時間が流れたことを知るということなのです。

 風流だとか粋だとかそういう趣をまだまだ私は理解しきれていませんが、季節の流れは楽しんでいるつもりではいます。その反面で時間の流れに焦りを感じている自分もいて複雑です。



2005年04月12日 火曜日 [23時44分] 92

.【 寒い日 】.

 こんばんは。アカキョです。この世で憎むべきものがあるとしたら、それは小指がぶつかるような位置にある箪笥だと思います。

               * * *

 開花宣言から一週間くらいでしょうか、私の住む街ではここ数日の悪天候からいきなり桜が全滅しているというなんともやるせないことになっています。一昨日は強風。桜は舞い散るもので吹き散るものではないのに、と思いつつも天気はよかったので油断していたのですが、続く昨日は雨、そして今日も雨でおまけに再び暖房をつけねばならない寒さときた。今日はちょっと間抜けな理由で郵便局まで行かねばならなかったのですが、その途中で冷たい雨の中すっかり枯れ木同然になった桜の木を見て余計に寒くなりました。


 

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